霊的宇宙論と物質世界の始まり:OAHSPEから読み解く創造の論理
OAHSPEが語る「創造主」と世界の起源について
OAHSPEでは、この世界における信仰の対象は、唯一「創造主」のみであるとされています。そのため、創造主以外のいかなる神や英雄、偶像も信仰の対象としてはならないと説かれています。
この宇宙には「1=全」ともいうべき存在が最初にあり、そこに「意識」が芽生え、「何かを創りたい」という意志が生じました。これが創造主のはじまりであったと考えられます。
原初の世界を描いた二つの章
OAHSPEには、この世界の起源について語られた箇所が二か所あります。
一つは、第3書『ジェホヴィの書』の冒頭です。ここでは「全なる者」が、自らを「すべての精神体」であり、「見える世界と見えない世界の創造者」として語ります。
私は『生命に息吹を与える者』であり『発起人』であり『創造者』であり『破壊者』です。
OAHSPE第3書 ジェホヴィの書 1章:4
私が始まりであり,終わりでもあります。
この中で、創造主は「目に見えるもの(the Seen)」と「目に見えないもの(the Unseen)」の二つの要素を使い、それらをもとにあらゆる生命を創造したと述べられています。
二つ目は、『神の言葉の書』に登場する聖人ザラツゥストラへの啓示です。そこでは、神イフアマズダが、創造主オーマズドと「全能の母ミー」によって「声(Voice)」が創られ、それが息子ヴィヴァンホであると語られます。
世界が形を持った理由
この二つの記述を比較すると、一つ大きな違いが見えてきます。それは、『神の言葉の書』では「処女母ミー(Mi)」が登場するのに対し、『ジェホヴィの書』ではまったく登場しないという点です。
原始の世界とは、何もない世界でした。そこで意識を持った創造主は、自らが「何かを生み出せる存在」であることに気づきました。そしてまず創造されたのが、「目に見えない世界」と「目に見える世界」でした。
「目に見えない世界」は精神の世界、すなわち創造主の内的な意識の世界です。一方、「目に見える世界」は形ある物質世界であり、他者と共有できる共通現実です。
創造主が物質世界を創った理由は、おそらく「自分以外の存在=処女母ミー」と、形を持って交流・共有するためだったのではないでしょうか。
このように考えると、『ジェホヴィの書』と『神の言葉の書』を併せて読むことで、なぜ「目に見える世界」が創造されたのか、その理由が見えてきます。片方だけでは読み取れない世界観が、両方の記述を通して立ち上がってくるのです。

コスモンとは何か?実体と霊体の融合が導く新たな世界観
ジェホヴィの書と神の言葉の書――その違いと背景にある時代
『ジェホヴィの書』は、現代人に向けて書かれた聖典です。一方で『神の言葉の書』は、紀元前7700年頃、ペルシア(当時は「パーシー」と呼ばれた)を中心とする人々に向けて記されたものです。
ここで疑問が湧きます。なぜ、はるか1万年も昔の書のほうが、内容が詳しく書かれているのでしょうか?
この問いを理解するためには、「コスモン(kosmon)」という概念を知る必要があります。
コスモンとは何か? ――実体と霊体の融合世界
コスモンとは、目に見える「実体」と、目に見えない「霊体」が融合している状態を指します。現代でわかりやすい例を挙げるなら、「電気の世界」がそれにあたります。
たとえば、電気の性質を表現するには、実数だけでなく「虚数」という、通常の感覚では理解しにくい数を使う必要があります。虚数とは、たとえば「√−1」のように、平方根を取ると負の値になるものです。このような「目に見えない」存在がなければ、電気の数式は成り立ちません。
そして、その電気こそが、現代社会の発展を支えてきたものです。今や、私たちの生活のほとんどが電気に依存しており、それなくしては成り立たなくなっています。
この電気のように、霊的な世界(目に見えないもの)は、現実の世界(目に見えるもの)を支える重要な存在であると考えられます。
霊と実体は分けられない――心もまた「見えない世界」の一部
「心」や「魂」も、目には見えませんが確かに存在しています。魂は基本的に不滅であり、肉体が滅んだあとも生き続けるものとされます。
つまり、「実体と霊体の融合」という考え方は、決して特別なものではなく、私たちの生活の中にすでに自然に根付いているのです。
融合なき時代の過ち――信仰の偏りが生んだ極端
コスモン以前の時代では、目に見えない世界ばかりを信奉するか、逆に一切信じないかのどちらかに偏っていました。
霊的な世界ばかりを重視しすぎれば、現実を顧みず、神頼みや偶像崇拝に依存することになります。一方で、物質的な世界だけを信じれば、自分の力を過信し、傲慢になってしまいます。
たとえば現代においては、AI(人工知能)がその例と言えるかもしれません。AIの進化は目覚ましいですが、それを人間の力の証として傲慢になると、やがて精神世界や創造主の声に耳を傾けなくなってしまいます。
その結果として、倫理や道徳が失われ、社会は争いや混乱に満ちたものとなり、私たちの生きる世界はますます苦しくなっていくでしょう。
コスモン時代に問われていること
だからこそ、霊的世界と物質世界の調和の中で、道徳や倫理、そして正義を守りながら、人間の精神性と生活レベルの両方を高めていくことが、コスモン時代に生きる私たちに求められているのです。
三位一体の真実とは?創造主・処女母・声の意味を探る
三位一体の真意と「処女母」の意味とは――コスモン時代における創造主の表現
現代の「コスモンの時代」においては、実証主義が重んじられ、目に見えないものや証明できないものは信用されにくくなっています。
そのような中で、「処女母ミー(Mi)」が『ジェホヴィの書』に記載されず、1万年前の神イフアマズダが語った『神の言葉の書』にのみ登場する理由が見えてきます。
おそらく、処女母のように創造主でさえも直接確認できない存在は、実証主義の価値観が支配するコスモンの時代においては受け入れがたいと判断されたため、『ジェホヴィの書』からは除外されたのでしょう。
しかし、証明できないものをすべて排除するのは、まだ見ぬ可能性の芽を摘むことにつながります。そのため、過去の聖典においてはあえて「処女母」の存在を残し、創造の物語に組み込んだのだと考えられます。
宇宙の始まりは「0」か「1」か? ――創造主の意味
この世界の始まりが「無(=0)」だったのかどうかという問いは重要です。なぜなら、「0」はどれだけ掛けても足しても「0」のままです。そこから何も生まれません。
したがって、創造の出発点は「1(=全)」でなければならないと考えます。その「1」とは、すなわち創造主の存在です。
創造主は、自らに似せて人間を創造したと語ります。人間は男性と女性で成り立っています。それは、創造主(父)と処女母(母)の関係を象徴しているようにも見えます。
表現と「声」の誕生――三位一体の本質
精神世界と、形ある実体の世界。形があってこそ他人と共有することができ、そこに生まれるのが「表現」です。
なぜ、私たちは他人と共有したいと思うのでしょうか?
それは、何かを訴えたいという「表現欲」があるからです。そして、この表現こそが「声」となりました。
つまり、
- 創造主(父)
- 処女母(母)
- 声(息子=表現)
この三者が揃って初めて、世界にさまざまな祝福がもたらされるというわけです。
どれか一つでも欠けてしまえば、この世界の調和は崩れてしまいます。これこそが、真の意味での「三位一体」なのです。
善と悪を超えて神へと成長する存在、それが人間
人間とは、創造主の「表現=創造物」です。人の中には善人もいれば悪人もいます。
創造主が望むのは、善なる世界です。とはいえ、善は悪と対比することで際立つ存在でもあります。しかし最終的には、私たちの世界は「善」の方向へと成長していかなければなりません。
善を貫いて成長した人間は、やがて「神」となります。
神とは、創造主によって創られた「声(息子・娘)」たちのうち、善良に成長した存在のことです。
そして、そのような「神に至った人間たち」の物語こそが、神話(Mythology)なのです。
神話学とは何か――人はどう神になったのかを追う学問
神話学とは、人間が神に至った過程を探究する学問です。
創造主を除いて、神話に登場する神々はすべて元は人間であったと考えられています。ただし、神話の中にはにわかには信じがたい話も多く見られます。たとえば「人の姿をした神がこの世界を創造した」というような内容も存在します。
そういった話は一見すると荒唐無稽に思えるかもしれませんが、多くの神話には何らかの背景や象徴的な意味が込められているものです。
ですから、神話の内容を単に否定するのではなく、その背後にある思想や世界観を読み解き、この世界の成り立ちや理(ことわり)を探究していくことこそが、神話学の本質だと考えています。
参考文献, 使用画像
図書 | 著者 | 出版社 |
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OAHSPE ”A New Bible in the Worlds of Jehofih and His angel embassadors.” | John B. Newbrough | OAHSPE PUBLISHING ASSOCIATION |
聖書 新共同訳-旧約聖書 | 共同訳聖書実行委員会 | 三省堂印刷/日本聖書協会 |
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