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物質界と霊界、そして魂:霊的構造を神話と聖典から読み解く
古代文明と人類の起源に対する疑問
今から50年以上前までは、紀元前4,000年頃に4大文明が誕生し、そこから人類は発展していったという解釈が一般的でした。ところが、近年ではそれ以前の遺跡が次々と発見され、その常識が疑問視されるようになっています。
人類の起源についても、アフリカ大陸から始まったという説がありますが、そこにも疑問が残ります。なぜアフリカで生まれた人類が世界中に広がっていったのか。そして、そもそも最初の「人間の種」は、どのようにして生まれたのでしょうか。
「心」はどこから来るのか?霊魂の個性について
霊魂に関しても、私は『OAHSPE』を知る以前から、その存在を信じていました。それは、世界に一人として同じ個性を持つ人がいないと感じていたからです。
仮に、まったく同じ環境で生まれた子供がいたとしても、その子の個性は完全に一致することはないでしょう。倫理的に実験はできませんが、そう感じる理由は、たとえ肉体が同じように作れても、そこに宿る「心」は人間の手では同じようには作れないからです。
『OAHSPE』によれば、「心(soul)」は精霊界(エーテリア界:etherea world)に属しており、実体界(corporreal)に生きる人間はその世界にアクセスすることができません。つまり、人間の手では「心」を人工的に再現することはできないということになります。
輪廻転生と「霊魂の順番待ち」
では、「心」はいつ誕生するのでしょうか?
もし、母胎から肉体が生まれると同時に「心」も生まれるのだとしたら、肉体の死とともに「心」も消えてしまうのでしょうか。
『OAHSPE』を知る前、私は輪廻転生の概念に触れたときに、ある疑問を抱きました。もし輪廻転生が本当に存在するのなら、この世界の人口以上に「心」=霊魂が存在していなければおかしいのではないか。仮に地上の人口が減った場合、余った霊魂はどうなるのか、と。
それが、私が『OAHSPE』を知る前の限界でした。それ以上の思索は、当時の私にはできませんでした。
しかし『OAHSPE』に出会ってからは、天界という領域があり、そこで「第2の復活」を待つ霊魂たちが存在することを知りました。母胎に命が宿るとき、天使ルーイの計画に従って、天界にいる霊魂がその子に宿るという順番待ちのような仕組みがあるのです。
この仕組みによって、地上に子供が増えても、天界の霊魂が不足することはありません。なぜなら、地上の人間には「死」がある一方で、霊魂には「死」がないからです。むしろ、霊魂が天界に溢れているという状況の方が、理にかなっているとも言えます。
「心」と霊魂を理解するには、神の啓示が必要
このように、私たちが「心」や「霊魂」の存在を正しく理解するためには、人間の知識だけでは不十分です。神々からの啓示や知識がなければ、根本的な理解には至らないのです。
だからこそ、ゾロアスター教の聖典『アヴェスタ』において、霊界についての記述を目にしたとき、私は強い違和感を抱きました。
アヴェスタに見る「物質界」と「霊界」の概念
以下は、ヤスナ第28章2節の一節です。
アフラ・マズダーよ,善思をもって
『原典完訳アヴェスタ ゾロアスター教の聖典』訳:野田恵剛(国書刊行会)
あなた方に近づきたいと思っている
この私に,物質界と霊界の恩恵をアシャに従って与えてください。
その恩恵によって[あなたが]支持者たちを安楽に置くことができるようにです。
ここでは、「物質界」と「霊界」という二つの世界について言及されています。『OAHSPE』によれば、ザラツゥストラが神イフアマズダと共に編纂した最初の聖書には、「物質界」と「霊界」が創造主オーマズドによって最初に創られたと書かれています。
そのため、人類最初の聖書を知っている者にとっては、このような二元的世界観はごく自然なものです。しかし、現在の『アヴェスタ』しか知らない読者にとっては、突然このような用語が登場しても、意味を理解するのは困難だと思われます。
「ドルジ」とは何か? 悪しき霊魂の正体
次はヤスナ第30章10節の引用です。
そこでドルジの繁栄の崩壊が起こるであろう。
『原典完訳アヴェスタ ゾロアスター教の聖典』訳:野田恵剛(国書刊行会)
ウォフ・マナフとマズダーとアシャの良い住処に速い馬が結び付けられて
彼らは良い名声を得るだろう。
ここで言及されている「ドルジ」という存在は、『OAHSPE』においては「ドルジャ(druja)」とも呼ばれ、闇の霊魂、すなわち「悪しき霊魂」を意味します。
「悪」とは、霊魂がこの地球に強く執着し、富や権力、名声などを求めることで生まれる欲望の状態です。このような世俗的欲望は「テトラクト」とも呼ばれ、7つの代表的な悪しき欲望が挙げられています。
肉体が滅べば、富や権力などは霊魂と共には持ち越せません。それでも、人はそれを求め、時に他人を陥れ、奪い、最悪の場合は殺人にまで至ります。その根源にあるのが、テトラクトという強い欲望です。これが闇に堕ちた状態、つまり「ドルジ」です。
もちろん、ドルジから脱却することも可能ですが、そのためにはまず、自分自身が過ちに気付く必要があります。
アヴェスタに潜む「原典」の片鱗
この「ドルジ」という言葉は、本来であれば『OAHSPE』のような霊的啓示を知っていなければ理解できない概念です。にもかかわらず、現代の『アヴェスタ』には、説明なしにこの言葉が登場しています。
これはつまり、現代の『アヴェスタ』には、かつて存在した「原典」、すなわち人類最初の聖書の記述が含まれていた可能性があることを示唆しています。こうした記述の痕跡も、神々の軌跡の一部であると私は考えています。

ヤスナ第51章が語る「正義」と「報酬」の本質
ヤスナ第51章の構成とそのテーマ
ゾロアスター教の聖典『アヴェスタ』の中でも、古アヴェスタ語で記された「ヤスナ第51章」は特に興味深い内容を持っています。この章は、以下の4つのテーマに分かれています。
節 | 概要 | テーマ |
---|---|---|
1~4節 | 善行に励む自分たちが、その対価を得られる世界はどこにあるのかという嘆き | 善行の報酬への期待と不安 |
5~7節 | 秩序と分別を持つ者が世界を支配すべきであり、神々はそのような者に「究極の善」を、そうでない者には「究極の悪」を与える | 勧善懲悪 |
8~14節 | 悪人がたどる末路についての記述 | 悪の結末 |
15~22節 | 善行に励み、神々を敬うことで、その見返り(利益)を得たいという願い | 善行への報酬の請願 |
世界の基本原理は「善」なのか?
アヴェスタによれば、この世界で目覚めた創造主は、最初に「善なるもの」を創造したとされています。つまり、この世界の基本原理は「善」にあるということになります。
では、「善」とは何を意味するのでしょうか?
善とは、単なる行為ではなく、誰にとっての善なのかが問われます。たとえば、悪とは、世俗に対する欲望にとらわれることだとすれば、善とは、霊的な成長や、魂が「光の輝度」を増す方向へ進むことだと言えるでしょう。
光と闇、正義と欲望
霊魂が闇に堕ちた状態は「悪」の象徴であり、反対に光を強めた魂は「善」の象徴とされます。この「光」とは、正義であり、自分の内面にある正義を見つけ、それを実践していくことが大切だと考えられます。
では、その「正義」は何のために行うべきものなのでしょうか?
正義と義務の違い──動機の純粋性
ヤスナ第51章では、冒頭で「正しいことをしたのだから、その報酬が欲しい」と述べられています。しかし、その報酬は誰が与えるのでしょうか? 神は、正しい者に「究極の善」を、悪しき者には「究極の悪」を与えるとしています。
ここで、考えなければならないのは、「正義」とは報酬がなければ実行されないものなのか?ということです。
見返りを前提とした行動は「義務」であり、純粋な正義とは異なります。たとえば、溺れている人を目の前にしたとき、「助けても報酬がもらえないなら見捨てる」というのは、正義とは呼べません。
結果としては同じ行動でも、「義務」と「正義」ではその背後にある動機がまったく異なるのです。
なぜアヴェスタは「義務」を説くのか?
ヤスナ第51章では、正義ではなく「義務」として善行を行うべきだと語られています。それは、人間が非常に堕落しやすい存在であるからだと考えられます。
神アフラが創造主の座を僭称しようとしたのも、地上から光が失われれば、人間はたちまち闇に堕ちてしまう、という危機感からでした。だからこそ、たとえ正義ではなく義務であっても、善行を行わせることが必要だったのです。
「悪に堕ちさせないこと」こそが、まず最優先されるべき目的であり、そのために勧善懲悪のような教えが説かれたのではないでしょうか。

アヴェスタ再読──原典からの転用を見抜く神話学的視点
ヤスナ第50章に見られる原典からの転用
現在伝わっているゾロアスター教の聖典『アヴェスタ』には、原典からの転用(または流用)と思われる句がいくつか存在しています。その一つが「ヤスナ第50章」です。
ヤスナ第50章の構成とテーマ
この章は、以下のような3部構成で編集されています。
節 | 概要 | テーマ |
---|---|---|
1~5節 | 不義な者が報酬を不正に得ている現状を嘆き、誠実な者に従いたいと願う | 救いと希望への願い |
6節 | 善思の創造主に、自分の舌を通して世界の理(規則)を教えてほしいと懇願 | 世界の理への渇望 |
7~11節 | 創造主のもとで繁栄し、理想的な世界を築きたいという願い | 理想の実現を求めて |
一見するとまとまりのある章に見えますが、6節に違和感があることが、本章の問題点です。
なぜ6節は不自然なのか?
この章は、本来1~5節だけでテーマが一度完結しています。現状に対する嘆きと、誠実さを求める願いが語られており、自然な流れとして読めます。
ところが、6節になると突如としてまったく別の内容が挿入されます。内容も文体も、前後と異なる印象を与えるため、この節だけが「浮いて」いるように感じられるのです。
問題の第6節を読み解く
以下が、その6節です。
マズダーよ,声をあげる予言者は,
『原典完訳アヴェスタ ゾロアスター教の聖典』訳:野田恵剛(国書刊行会)
アシャと友である敬虔なザラスシュトラです。
善思の創造主は舌の御者になり,
ウォフ・マナフを通じて私の規則を教えて下さい。
―『アヴェスタ』ヤスナ第50章 6節
この節では、ザラスシュトラが創造主に対し、自分の口を通じて世界の規則を示してほしいと懇願しています。特に注目すべきは2行目の「アシャと友である敬虔なザラスシュトラ」という表現です。
アシャとは神ではなく人間の友
この「アシャ」は、スプンタ・アムシャの一柱として知られる「正義の神アシャ」ではありません。『OAHSPE』によれば、これはザラツゥストラの親友アシャのことを指しており、霊的な存在ではなく、定命の人間です。
アシャはザラツゥストラより年長で、赤ん坊の頃からザラツゥストラを見守り、彼が非業の死を遂げる際にも付き添い、やがては「サルギスの姿」で再び現れる存在とされています。
この文脈から見て、ザラツゥストラが呼びかけている「マズダー」は、イフアマズダのことであり、ザラツゥストラに宿っていた創造主そのものです。そして彼は、創造主オーマズドの意志を知るために、自分の舌を通して「世界の規則」を教えてほしいと願っているのです。
この6節は原典からの転用か?
こうした背景を踏まえると、6節はおそらく原典(初期聖書)からの転用だと考えられます。この節が無理に挿入されたことで、章全体の構成が不自然になり、3部構成としていびつな印象を与えているのです。
原典の痕跡を探ることの意義
このように、現代に伝わる『アヴェスタ』の中には、原典からの断片的な転用句が紛れ込んでいると考えられます。とくに、神イフアマズダと偽神アフラマズダの違いや、ザラツゥストラとアシャの霊的関係を理解していれば、そのような痕跡を見抜くことも可能になります。
こうした作業は、単なるテキスト比較ではなく、神話学としての知的探究の醍醐味でもあるのです。
参考文献, 使用画像
図書 | 著者 | 出版社 |
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原典完訳アヴェスタ ゾロアスター教の聖典 | 訳:野田恵剛 | 国書刊行会 |
OAHSPE ”A New Bible in the Worlds of Jehofih and His angel embassadors.” | John B. Newbrough | OAHSPE PUBLISHING ASSOCIATION |
画像:stable diffusion(model:epicRealism)より生成
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