はじめに
OAHSPE第26書『ボン弧の書』第14章2節には、次のような一節があります。
学者たちの言語はフォニシア語とパーシー語でしたが、現地人の言語はエギュプト語、アラビア語、ユースティア語、セミス語でした。学者たちの暦では1年は太陽2つ分でしたが、ユースティア族の暦では1年はわずか6か月でした。従ってエギュプトの地では、学者たちの1年はユースティア人とセミス人にとっては2年でした。
OAHSPE-26『ボン弧の書』14章-2
この箇所には、古代エジプトの暦観をめぐる興味深い違和感が見られます。
学者階層は1年を「太陽2つ分」、つまり12か月と見なし、
一方で民衆は1年を「6か月」とする**二期暦(二倍年歴)**を用いていた――
この点は、確かにOAHSPEの独特な記述です。
しかし、問題は「太陽2つ分(two suns)」という表現にあります。
この「太陽2つ分」とは一体、何を意味しているのでしょうか。
「太陽2つ分」とは何か
文脈から判断すれば、「太陽2つ分」とは12か月、すなわち現在の1年に相当します。
それに対して「太陽1つ分」は6か月、つまり半期を指していると考えられます。
しかし、なぜ古代エジプトの学者たちは「太陽1つ分=6か月」と捉えたのでしょうか。
古代エジプトにおける太陽暦の意味
一般に古代エジプトの暦法は、**月と星(特に天狼星シリウス)**の観測を基準としていたとされます。
(参考:『古代エジプト全史』第2章「古代エジプト史の枠組み」-「天体観測による紀年法」)
ところがOAHSPEの記述では、学者階層の暦は「月」や「星」ではなく、太陽を基準としているのです。
この点が非常に重要です。
エジプトでは、夏至の到来が「雨季の始まり」と見なされていました。
夏至からおよそ半年間が太陽1つ分(six months)、
つまり夏至から冬至までを「太陽の一巡」として数えたと考えられます。
この季節の循環は、単なる天文的周期ではなく、
**ナイル川の氾濫期(アケト:Akhet)**と深く結びついていました。
(出典:『古代エジプト全史』第4章「エジプトにおける「新石器化」」)
ナイルの氾濫はエジプトに恵みをもたらす最大の出来事であり、
人々の暦感覚はこの自然現象を基準として形成されていたのです。
民衆の暦と二期制の構造
エジプトの民衆は、ナイルの氾濫期(アケト)の始まりを「年の始まり」とみなし、
氾濫期が終わると「年の瀬」を迎えました。
その後の**種まき期(ペレト:Peret)が次の年の始まり、
そして収穫期(シュム:Shemu)**が終わると、再び年の終わりとなります。
(参考:『古代エジプト全史』第1章「エジプトの自然環境と地理」-「ナイル川と古代エジプト人の生活」)
つまり、彼らにとって1年は「氾濫と収穫」という二つの循環で構成されていたのです。
この構造こそが、OAHSPEに見られる「太陽1つ分=半年」「太陽2つ分=一年」という
二期的時間観の背景にあったと考えられます。
「太陽」を基準とした理由
古代エジプト人は、月や星以上に太陽への信仰が篤く、
ラー神やアテン神など、太陽神は最高神として崇拝されていました。
そのため、暦の基準も自然に「太陽」を中心とした表現となったのでしょう。
OAHSPEがここで「太陽」という語を用いたのは、
単なる天文学的な周期を示すためではなく、
当時の人々が崇拝していた“太陽信仰”を反映した文化的表現と見るべきです。
つまり、「太陽2つ分の年」とは、
天体現象の単位というよりも、
人々の信仰と生活のリズム――
すなわち「ナイルの恵みと太陽の恩寵」が織りなす周期を象徴しているのです。
おわりに
OAHSPEの記述は、しばしば実際の天文観測とは異なる「象徴的言語」で表現されます。
そのため、字面だけを追っても意味が掴みにくいことがあります。
しかし、文脈を文化史的に読み解けば、
「太陽2つ分」という表現は単なる誇張ではなく、
古代エジプト人の太陽信仰と季節生活の融合した暦観を示す言葉だったと理解できます。
参考文献, 使用画像
| 図書 | 著者 | 出版社 |
|---|---|---|
| OAHSPE ”A New Bible in the Worlds of Jehofih and His angel embassadors.” | John B. Newbrough | OAHSPE PUBLISHING ASSOCIATION |
| 古代エジプト全史 | 河合 望 | 株式会社雄山閣 |
画像:stable diffusion(model:XSMerge-RealisticVisionV3-ForArchi)より生成


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