【OAHSPE哲学】古代インドの偉人カピーリャが説く「人生で守らなければならない12の美徳」

ヴィンデュ(インド)のハフガニスタンの王であったカピーリャは、創造主ジェホヴィ(オーマズド)を信仰する信徒に対して、12の美徳を説きました。その内容は次の通りです。

  1. すべてのものの中にジェホヴィを見出し、愛し、讃えること
  2. 清潔
  3. 魚や肉、その他の汚れたものを食べないこと
  4. 勤勉
  5. 労働
  6. 禁欲
  7. 思慮深さ、特に言葉に対する思慮深さ
  8. 体制と秩序
  9. 遵守
  10. 規律
  11. 従順

この内容は『旧約聖書』の出エジプト記第20章の、俗にいう「モーゼの十戒」の内容とは異なり、現世の人間に向けられた「心のルール」となります。

まず、カピーリャの12の美徳を考察する前に、モーゼの十戒(出エジプト記)の内容について考察します。

モーゼの十戒に対する考察

モーゼはインドのカピーリャ王と同じく、紀元前1500年ごろに活躍した伝道者です。(ここでの伝道者は、創造主の考えを人々に伝道する役割を担った聖人を指します)

旧約聖書の出エジプト記第20章に記載の「モーゼの十戒」の内容は次の通りです。

  1. わたし(=エジプトからの脱出を図ってくれた神)をおいてほかに神を持たないこと
  2. いかなる像も造らないこと
  3. 神、主の名をみだりに唱えないこと
  4. 安息日を心に留め、聖別すること
  5. 父母を敬うこと
  6. 殺さないこと
  7. 姦淫しないこと
  8. 盗まないこと
  9. 隣人に関して偽証しないこと
  10. 隣人の家を欲しないこと

この十戒を整理すると下表のようになります。

No項目考察
1ほかに神を持たないこと唯一神
但し、本来は「創造主」以外にいかなる神も信仰しないことが主旨。
それがここでは、イスラエル人のエジプト出国を手助けした神のみを信仰する内容になっている。これは本来、誤り。
2いかなる像も造らないこと偶像崇拝禁止の掟。
偶像崇拝を禁止する理由は、1に同じく、「創造主」以外を崇めてはいけないため
3神、主の名をみだりに唱えないことお祈りを捧げる際、神(ここでは創造主)の御名を唱えるが、普段から勝手に唱えないようにするのは、理解不能。
創造主ジェホヴィは「常在」の存在としてOAHSPEでは表されているため、「みだりに唱えない」のではなく、むしろ「普段から身近にいる存在として語り掛ける」べきではないかと考える。
4安息日について創造主を讃える日を設けることが主旨。
現在に伝わる「旧約聖書」では、創造主の部分が「神」となっているが、本来は創造主を讃えるための休み(安息日)
5父母を敬うこと父母を敬うことも重要だが、創造主の教えは「隣人」を愛することである。
ここでの父母は、創造主(御父)と地母神(母なる神)を指しているのではないかと考える。それを「両親(父母)」に限定してしまうと、あまりに狭義な内容となり、しかも創造主の意図からかけ離れてしまう。
6殺さないことこの掟は普遍の内容であり、OAHSPEでも頻出する。
創造主によって誕生した聖なる存在(霊魂)を殺めることは、創造主の偉業を汚す行為であるとともに、霊的な観点から言えば、殺めた霊魂に対して怨恨を抱かせ、それが地獄を生み出す温床となるためである。
生きていれば、生活上で恨みを抱かれることもあるが、生きていれば、その恨みを解消(=仲直り)する機会がある。しかし、殺してしまえばそういった機会は現世において永遠になくなる。
7姦淫しないこと姦淫は「闇の霊魂(ドルジャ)」の憑依を誘発する。その他、暴飲暴食、我儘もすべてドルジャの憑依を招くものとなる。
8盗まないこと人は「生産」することで、それを対価として経済を回し、生活の基盤を作っていく。しかし「盗み」は何も生産しないため、生活の基盤に何一つ貢献しない。
もし「盗み」を仕事と言い張る人がいたら、その「盗み」が生活基盤に貢献しているのかを問い質すべきである。
9隣人に関して偽証しないことその通りなのだが、内容が限定的であり、普遍的とはいえない。
10隣人の家を欲しないこと禁欲の一環でありその通りなのだが、内容が限定的であり、普遍的とはいえない。

「モーゼの十戒」は普遍的な内容として書かれたものではなく、おそらく当時(紀元前1500年ごろ)の生活において忽ちに守るべき注意事項を訓戒し、それが聖書に収録されたものと思われます。

これに対して、カピーリャの「12の美徳」は、現代人にも通じる内容となっており、その内容に対して考察していきます。

カピーリャの12の美徳(第1の美徳)

第1の美徳は、すべてのものの中にジェホヴィを見出し、愛し、讃えること学ぶことです。

OAHSPE-26『ボン弧の書』11章-7

カピーリャは創造主ジェホヴィから直接訓戒を受けながら、ヨコヴラナ王の王子として離散していた信仰者を集め、復興し、ヨコヴラナ王の薨去後は即位し、信仰者の庇護の法を制定し、退位後は影響力を保持したまま、国内の発展や信仰者の育成に尽力しました。
こういった過程もあり、カピーリャの「12の美徳」は現代にも通じる普遍的な内容となっていますが、現代の日本(特に信仰心が乏しい日本人)では、この第1の美徳と呼ばれる内容についてあまり馴染めないのではないかと思います。

この世界は創造主ジェホヴィが最初に創った世界であり、そこに数多くの「表現」が生まれていき、その一つが地球や私たち人間、そこで暮らす生物となります。
これらがすべて「創造主の表現」であるということをまず認識しないといけないのだと考えます。
おそらく、その表現物の中には、憎たらしく思ったり、嫌悪するものもあるかと思います。しかし、それら一つ一つが「創造主の表現」であることを理解する必要があります。
しかし見誤ってはいけないのは、「物」そのものを崇めることではないという点です。「物」を崇めることは偶像崇拝となるからです。その「物」を創った創造主を讃えること、これが重要なことなのだと考えます。

カピーリャの12の美徳(第2の美徳)

第2の美徳は清潔です。老若を問わず、すべての民は一日に一度沐浴しなければなりません

OAHSPE-26『ボン弧の書』11章-8

これは第3の美徳にも関わってくることですが、第2の美徳は外見の清潔さについて語られています。
清く正しい心(霊魂)は、清く正しい身なりからもたらされるという考えのもと、この美徳が定められたのだと考えます。

カピーリャの12の美徳(第3の美徳)

第3の美徳は、魚や肉、その他の汚れたものを食べないことです。内側に汚れを入れておいて、外側を洗ったところで何の益があるでしょうか?

OAHSPE-26『ボン弧の書』11章-9

第2の美徳が肉体の外面的な「清潔感」であるとしたら、第3の美徳は内面的な「清潔感」について語っています。
内面的な「清潔感」とは、体内に摂取する食事です。実は霊魂は、草木などの植物から生み出される「エーテル(霊気)」を栄養分とします。(OAHSPE-4『セタンテスの書』3章-27)
そのため、実体界で魚肉の味を覚えてしまうと、死後の世界(天界)で暮らせず、実体界の人間に憑依する可能性が出てきます。
また、魚や獣にも霊魂は存在しており、その肉を喰らうということは、その霊魂も体内に摂取することになります。その結果、人間の霊魂は、喰らった魚や肉の霊魂によって蝕まれていきます。
こうなった場合、どれだけ身体を清めても体内が蝕まれているため、霊的な「清潔感」は保てなくなります。
食事と外面的な清潔感が、カピーリャが説く第2、第3の美徳になります。

カピーリャの12の美徳(第4の美徳)

第4の美徳は勤勉です。御父は人間に羽毛も髪も羊毛も与えなかったのですから、人は衣服を着なければならず、これこそが神の戒めの証しとなります。衣服を着ること、そして食料を確保することはすべての人々に義務付けられた勤勉です。
これらに加えて、困っている人のために働くこと、彼らに入浴と食事を与え、住居と衣服を与えることは、御父があなたの魂の価値を御父に証明する自発的な勤勉となります。
勤勉なくして、いかなる者も善行者にはなれません」

ラバの一人がカピーリャに勤勉とは何かと尋ねました。これに対しカピーリャはこう答えました。
有益な結果を得るために絶えず活動し続けることです。日の出前に起き、日の出までに沐浴し、宗教儀式を執り行い、その後は日没まで厳しくではなく楽しく働くこと、これこそが勤勉となります。
勤勉な人はサタンの囁きに浸る暇などほとんどないのです。

OAHSPE-26『ボン弧の書』11章-10,11

第4の美徳は勤勉になります。
ここでの「勤勉」は衣食住を確保するために働くことになります。さらにこの「勤勉」には先があり、自分の衣食住を確保できたなら、今度は困っている人の衣食住に対しても支援の手を差し伸べることを伝えています。
衣食住の確保がなぜ「勤勉」なのかというと、この3つは生きるために必要不可欠なため、手を抜くことが許されないからです。
衣食住の確保ができたなら、それで活動は終わりかというとそうではなく、「有益な結果を得るために絶えず活動し続けること」も指摘しています。
「絶えず」という部分が重要であり、よりよい生活のため、活動を止めないことが「勤勉」の要素なのだと考えます。

カピーリャの12の美徳(第5の美徳)

第5の美徳も同じようなもので、労働です。
あなたたちの中に富める者は一人もいません。しかし、皆が労働するのです。あなた方が適切な労働によって肉体を強靭に鍛え上げるように、労働という行為は天界における住まいのために、人の精神を有益な成長へと導きます。
私はあなたたちに偉大な真理をお伝えします。それは、実体界の肉体を使って働かない怠け者や富裕者は、無力な幼子として天界に生まれてしまうということです。

OAHSPE-26『ボン弧の書』11章-12

第5の美徳は「労働」であり、「勤勉」と似ているとカピーリャは説いていますが、どう違うのかといえば、「勤勉」は有益な結果をもたらすため絶えず活動する精神性を表しているのだとすれば、「労働」は活動行為そのものを表している点にあります。
身体を使って働かない者は、死後の世界で霊魂となったとき、幼子からリスタートするとカピーリャは説いています。

カピーリャの12の美徳(第6の美徳)

第6の美徳は他のすべての美徳よりも偉大なものとなりますが、それは禁欲です。
禁欲がなければ、地上でも天界でも、誰も魂の平安を得ることはできません。
自分の利益のためではなく、まったくの赤の他人であったとしても、その人の利益になるかどうかをよく考えなさい。
第6の美徳がなければ、家族は平和に暮らすことはできません。

OAHSPE-26『ボン弧の書』11章-13

第6の美徳は「禁欲」といい、利己心の抑制になります。
利己心は我儘とも読み替えることができますが、自分の利益を貫こうとするといつかは他人と衝突するため平安が得られません。
しかし、他人の利益を考えて行動するのは想像以上に難しいことであり、その無欲さに付け込まれて過酷な状況に追い込まれることもあります。
それでも、この理不尽極まりない世界で少しでも他人の利益を考えて行動することができたなら、霊的に成長できるのかもしれません。

カピーリャの12の美徳(第7の美徳)

第7の美徳は愛です。
あなたが語るとき、その言葉が愛を育むものかどうかを考えなさい。もしそうでないなら、語ってはいけません。そうすれば、生涯敵はいなくなるでしょう。
しかし、もしあなたが誰かに対して正義心から良いことを言えるなら、黙ってはいけません。
これが多くの愛を得る秘訣です。

OAHSPE-26『ボン弧の書』11章-14

愛とは、それを「大事に想う」心だと考えます。
ただ、愛はいろいろな表現があり、例えば、愛が足りないとは「大事に思う心が弱い」ということであり、歪んだ愛とは「大事に想っているのだが、その表現が素直ではない」ということであり、愛の鞭とは「大事に想っているがゆえに厳しく臨む」ことを指しています。
このように「愛」にはさまざまな表現がありますが、カピーリャの説く「愛を育むもの」というのは「互いに大事に想う心を強くする」ことを指しており、まず話し掛けるとき、その言葉が「愛を育む」ものなのかどうかを熟考することをここでは説いています。
しかし、良薬口に苦しという諺があるように、時には厳しいことも言わなければならない時があります。その言葉で相手が傷ついたとしても、それが相手を想ってのことだとすれば、言わなければならないとここでは説いています。
しかし、これも時と場合によるのだと思います。相手のことを本当に大事に想っているのであれば、言うべきなのかもしれません。逆に、そこまで自分を犠牲にしてまで言う必要がないのであれば、言うべきか否かは良心に依るのだと思います。

カピーリャの12の美徳(第8の美徳)

第8の美徳は思慮深さ、特に言葉に対する思慮深さになります。
よく考えてから話すことです。もしすべての人がこれを行えば、あなたは隣人の知恵に驚くことでしょう。
思慮深さとは調整器のようなもので、それがなければ、人はもつれた糸のようになってしまいます。

OAHSPE-26『ボン弧の書』11章-15

よく考えてから話すことー。
これは裏を返せば、思い付きで話さないことを言っています。
思い付きで話すということは、心のまま、つまり魂の赴くままに話すことであり、うまく行くこともあれば、失敗することもあります。後悔先立たずという諺があるように、一度口に出てしまった言葉は訂正するのが困難であるため、まずは熟考してから話すことが隣人との関係性を保つのに重要であるとここでは言っています。
調整器は温湿度を管理する機械のようなもので、いわばバランサーです。
カピーリャが説く「思慮深さ」とは、周囲の人間との均衡を保つための道具のようなものだと言っているのかもしれません。

カピーリャの12の美徳(第9の美徳)

第9の美徳は、体制と秩序です。
弱い人間でも体制と秩序があれば、それを持たない強い人間よりも多くのことを成し遂げられます。

OAHSPE-26『ボン弧の書』11章-16

体制とは、ある目的を実現するために複数人が集まり役割分担された集団ですが、その体制を有機的に動かすためのルールが「秩序」であり、秩序がなければ目的に対して連携しながら進めることができません。
せっかく組織を作っても、それぞれが勝手に行動をしては個人の能力以上の成果は出せません。しかし助け合うことで個人の能力を「補完」できれば、個人の能力以上の成果を出すことが可能になります。
この第10の美徳は、それまで個人に対する美徳とは異なり、社会性について問われています。

カピーリャの12の美徳(第10の美徳)

第10の美徳は遵守です。
遵守する人は、儀式や式典など、古来より善であると証明されてきたものを受け入れることができます。遵守しない人は、最古の慣習にまで遡って、現世における自らの利益を放棄することになります。

OAHSPE-26『ボン弧の書』11章-17

ここでの「遵守」とは、古来から「善い」とされてきたものを守ることです。ここで重要なのは「悪法」を守るのではない、ということです。
これが非常に難しいところであり、世の中が悪に塗れてしまった場合、悪法に手を染めないようにするのは至難の業です。しかし、どれだけ世の中が悪に傾いても、すべての善性が失われることはないため、その場合、せめて自分だけでも「善い」と思えるものを守っていくという心構えが大切なのではないかと思います。

カピーリャの12の美徳(第11の美徳)

第11の美徳は規律です。これは個人と家族のためのものであり、規律を持たない者は、乗り手のいない競走馬のようなものです。
起床時間、食事の時間、祈りの時間、踊りの時間、労働の時間。これらは誰にとっても善いものですが、互いに一致団結して規律を守る家族は『規律者Discipline』となります。

OAHSPE-26『ボン弧の書』11章-18

カピーリャは「秩序」と「規律」を分けて説いており、前者が組織の中でも法だとすると、後者は個人(または家族)における法と定義しています。
組織における「秩序」だけでなく、個人または家族間でも規律を守ることをカピーリャは推奨しています。
おそらく、好き勝手に振る舞う家族よりも、協力しながら暮らしている家族の方が傍から見て「幸せ」と感じる人は多いと思います。それは、多くの人が家族に「心の繋がり」を求めているからであり、それを実現するのが「規律」なのだと思います。
しかし、規律は束縛とは異なり、「一致団結」して目的にあたる協力体制のことを指しています。束縛とは、その人の意志を無視して強制的に協力させることであり、得られる「成果」は同じであっても、束縛では各人の霊的な成長面は望めないため、全員が納得した上で規律を守ることが求められているのだと考えます。
しかし、「自由」を叫び、「規律」を束縛と感じて離れてしまう人もいると思います。そのような人に対する警鐘が、第12の美徳(従順)になります。

カピーリャの12の美徳(第12の美徳)

第12の美徳は第11の美徳と似たようなもので従順です。
すべての善良で偉大な人は従順です。規律に従わないことを誇る者は愚かで狂人です。
従順な弱者は、反抗心の強い人よりも偉大で優れています。なぜなら、前者は家族の調和を促進し、後者はそれを破壊するからです。

OAHSPE-26『ボン弧の書』11章-19

規律(第11の美徳)と従順(第12の美徳)は似たようなものであるとカピーリャは説いていますが、規律を窮屈と思う人は「愚かで狂人」とカピーリャは言っています。
その理由を、規律は家族の調和を促進するのに対して、規律を破る者はそれを破壊すると説明しています。
自由に憧れて規律を疎かにすると連携が取れなくなります。規律に固執してしまうとそれ以上の成長は望めなくなりますが、この世界には「善」もあれば「悪」も必ず存在しており、わざわざ自分から「悪」である「自由」を望まなくても、「自由」の風を吹き込む人はいつの時代にも存在します。それが変革であり、変革によって新たに生まれた「種」は大事に育てていく必要があり、それを行うのが「体制」であり「秩序」なのだと考えます。
結局のところ、「規律」を束縛と捉えるのか、体制の維持と捉えるのかは人に依ると思いますが、少なくとも「規律」に従うことが苦でなければ、それをあえて放棄する必要はないのだと考えます。
規律に従うことを苦だと思う人は、自由に生きることが定められた人なのだと思います。そういった人は、規律に対して新しい風を吹き込む役割を担っており、その役割を全うするべきだと考えます。
しかし、自由を唱えるのは聞こえが良くても「破壊」行為です。破壊したら必ず「再生」が必要であり、再生の伴わない自由は無法者であると考えます。
自由を唱える人は、願わくば、自由の先の新秩序に対しても責任を持ってほしいところです。

カピーリャの12の美徳(結語)

これらの12の美徳について考えてみてください。それらは全世界にとって十分な法です。
人は書物や法をいくら増やしても、これらの12の美徳を採用しなければ、家族も、植民地も、国家も幸福にはなれないのです

OAHSPE-26『ボン弧の書』11章-20

カピーリャは12の美徳を説いた後、これを採用しなければ「家族も、植民地も、国家も幸福にはなれない」と言いました。
確かに、この美徳は現代にも通じる普遍的な内容であると考えます。そしてカピーリャがこの美徳を奨めた相手は、創造主を信仰する信仰者です。
そうした人々に近づきたいと思う人は、少しでも守っていくのがよいのではないかと考えます。

参考文献, 使用画像

図書著者出版社
OAHSPE ”A New Bible in the Worlds of Jehofih and His angel embassadors.”John B. NewbroughOAHSPE PUBLISHING ASSOCIATION

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