王の後悔と司祭への不信
ヨコヴラナ王は死を目前にして、自らの良心の呵責に苦しんでいました。彼はデユス(ディアス)の名のもとに戦争を行い、多くの命を奪いました。その一方で、司祭が説いた「金を払えば罪を贖い、天界での高位が約束される」という言葉は嘘であり、裏切られたことに気付いたのです。
良心は常に正しいのか?
このとき、息子カピーリャ王子は父に問いかけました。
「良心は人間の一部に過ぎないのだから、誤ることもあるのではないか」
つまり、人は「良心」と思い込んで行動しても、それが必ずしも正しい結果をもたらすとは限らないということです。
良心と最善の行い
カピーリャ王子はさらに続けます。
「結局のところ、その時、最適で最善と思えることを行ったならば、それが法を実行したことになる」
ここで言う「法」とは、神の定める真理に近い行いのことを指しています。現世の人間に理解されずとも、神々はその行為を認めてくれるという信念です。
正しい道を歩むということ
ヨコヴラナ王が後悔したのは、結局「自分は正しい道を歩んでこなかったのではないか」という不安でした。
一方でカピーリャ王子は「たとえ結果が裏目に出ても、最善を尽くした行いは神々に評価される」と説きました。
このやり取りは、私たちに「良心とは何か」「正しい道を歩むとはどういうことか」を問い直させます。
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