【名言】自由は「不自由」があってこそ実感できる

【この名言から得られる教訓】

この名言は、『OAHSPE 第3書「ジェホヴィの書」』の冒頭(第1章)からの抜粋です。

まず、この世界には「始原の世界」というものがあり、創造主はその世界そのものと考えてよいのかもしれません。そして、その世界には2つの要素があるとされています。1つは目に見えない世界(=不可視の世界)、もう1つは目に見える世界(=可視の世界)です。

ここで注目すべき点は、「目に見える世界は無力である」と言われていることです。というのも、可視の世界では目に見える範囲でしか物体を動かすことができないという制約があるからです。このような物理法則という枷(かせ)に縛られた世界と、そうした制限のない不可視の世界が、この世界の根幹をなしているというわけです。

創造主はこの2つの要素を用いてすべての生命を創造されたと言います。つまり、生命は霊魂という見えない存在と、肉体という見える存在の組み合わせで成り立っているということです。私たち人間を例に取ると分かりやすいかと思います。たとえ魂というものを目で見ることができなくても、それを感じ取ることはできます。心や性格といった「人格」は見えませんが、確かに存在していることがわかります。そしてそれらは、肉体とは別の存在であり、霊魂に宿っているとされています。
肉体は物理法則に従って動きますが、霊魂はその制限を受けません。肉体が活動を停止し、つまり死を迎えると、霊魂は肉体を離れます。基本的には第一の復活のために天界へ昇天しますが、現世への未練があったり、自分の死を認識できなかったりすると、この世に留まることになります。また、憎しみを抱えたまま死を迎えると、霊魂は地獄に引き込まれ、昇天できなくなるとも言われています。

この世界は、物理法則に従って生きなければならない「不自由な世界」であるという前提を、私たちは意識しておく必要があります。

では、なぜそんな不自由な世界が存在するのでしょうか。

それは、「自由な世界が自由であることを実感するため」だと考えられます。たとえば、悪が善を引き立てるために存在するように、不自由も自由を際立たせるために存在しているのだと思います。つまり、不自由な世界(=実体界)があるからこそ、すべてが自由な世界(=霊界)のありがたさや本質を感じることができるのではないでしょうか。

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