【名言】感じるだけでは届かず、見るだけでは通じない。理解はその両方を結んだ先にある

主観と客観──創造主の意図

この章で語られている「主観」と「客観」は、非常に哲学的なテーマです。
ここでいう「主観」とは、自分が当事者として感じ、考える視点のこと。
一方の「客観」とは、自分という人格を保ったまま、その出来事や状況を冷静に捉える視点を指します。

たとえば、ある事件が起こったとき。
「主観的に考える」とは、当事者の立場でその痛みや悲しみを想像すること。
「客観的に考える」とは、一歩引いた立場から、その出来事を全体として理解しようとすることです。
どちらも大切ですが、『OAHSPE』はこの二つを「拘束」と呼び、人間が両方を使い分けることで初めて“理解の力”を得られると説いています。


「拘束」としての理解力

創造主は、人類が「主観」と「客観」の両方を持つように創りました。
それは、互いに理解し合うためです。

「主観」に偏ると、人は自分の意見を押し付け合ってしまい、議論が平行線をたどります。
しかし、「客観」を持つと、自分の意見を一歩引いて考え、相手の立場も理解できるようになります。

つまり、「客観」とは他者との真の交流(association)を生むための力なのです。
人と人が分かり合うためには、主観的に感じることだけでなく、客観的に見る力が欠かせません。
創造主が人類にこの二つの視点を与えたのは、まさに理解し合うための霊的な構造を築くためだったのだと思います。


結びに

私たちは日々、感情や意見に揺れ動きながら生きています。
しかし、その中で少し立ち止まり、「客観」という光を通して物事を見つめ直すとき、そこに本当の理解と和解が生まれるのかもしれません。

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