「言葉だけを与える者」への警鐘
この一節は、心に鋭く突き刺さります。
とくに「言葉だけを与え、労働を伴わない者は地獄の下僕である」という言葉には、伝える者すべてが耳を傾けるべき真理が込められています。
私自身、日々OAHSPEの言葉を引用し、霊的な真理を語っています。
そう考えると、まるで自分がこの「言葉だけを与える者」に当てはまるのではないかと、胸が痛む思いがします。
けれども、私は今も会社員として働きながら、空いた時間に執筆を続けています。
その「労働」と「実践」があるからこそ、私の言葉が現実から離れずにいられるのだと感じます。
労働のない言葉は「重み」を失う
なぜ、労働を伴わない言葉が“地獄の下僕”と呼ばれるのでしょうか。
それは、実践のない言葉には重みがなく、重みのない言葉はいくらでもごまかせるからです。
言葉を弄(もてあそ)ぶだけでは、信仰も真理も形骸化していきます。
ごまかしはやがて嘘となり、欺瞞となり、霊的に見れば“闇”への道を歩むことになるのです。
教える者は、言葉よりも先に行動で示す責任があります。
自らの手で働き、人のために何かを成し、共に生きることで初めて、言葉に「力」が宿るのだと思います。
自らの手で支える信仰
「言葉を与える者」ではなく、「手を差し伸べる者」でありたい。
それが創造主に仕える者としての、真の在り方なのかもしれません。
日々の労働や奉仕は、霊的な修行の一部でもあります。
人と共に働き、助け合う中でこそ、説法の言葉は“生きた言葉”に変わるのです。


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