中国文明と結びつくティインの影──二里頭文化の謎
偽神デユスと「1,000年戦争」の始まり
紀元前3680年ごろ、神アヌハサジが自らを「デユス(Dyas)」と名乗り、創造主ジェホヴィに対して反乱を起こしました。彼はその後、約1,000年間にわたって地上に創造主として君臨します。しかし、紀元前2900年ごろ、配下の神々が反旗を翻し、ついにはデユスは地獄へと堕とされることになります。
この一連の反乱とその後の戦争は、オアスペ(OAHSPE)では「1,000年戦争(The First One Thousand Years’ War)」と呼ばれています(OAHSPE、Book of Wars Against Jehovihより)。ただし実際には、戦争は1,000年で終わったわけではなく、デユスの没落後もその部下だったオシリス(Osiris)、ティイン(Te-in)、スドガ(Sudga)が、それぞれエジプト・中国・インドに拠点を築き、戦争を継続していきました。
反乱の広がりと「ボンの夜明け」
これらの反乱が中国で本格化したのは、デユス没落後の紀元前2890年ごろと見られています。そして、この長きにわたる霊的な争いに終止符が打たれるのが、紀元前1500年ごろに訪れる「ボン弧の夜明け(Dawn of the Arc of Bon)」です。
この紀元前1500年という時期は、中国史ではちょうど殷(いん)王朝の時代にあたります。『史記』によれば、殷の湯王(とうおう)は、暴君とされる夏の桀王(けつおう)を討ち滅ぼし、新たに殷王朝を打ち立てたと伝えられています(『史記』夏本紀)。
この「ボンの夜明け」と湯王の革命が重なることから、夏王朝は霊的に見てティインによって興された国家であった可能性が高いと考えられます。
二里頭文化とティインの王国
落合淳思氏の著書『殷――中国史最古の王朝』によると、
「当時の王朝は、現在の中国・河南省偃師市の二里頭に置かれており、約四平方キロメートルの範囲から住居跡や青銅器の工房、そして大小二つの宮殿が発見されています」
(同書 第1章「殷王朝の前期・中期」)
この遺跡群は「二里頭文化」と呼ばれ、紀元前2000年〜1600年頃に繁栄したとされています。この時代は、OAHSPEにおける「対ジェホヴィ戦争(Wars Against Jehovih)」の時代と一致します。
さらに、紀元前2000年という年代は、ティインがデユスに対して反乱を起こした時期と重なるため、二里頭文化の王都はティインによって築かれたとする見方が自然です。
五帝時代と夏王朝の成立
『史記』「五帝本紀」によれば、当時中国を統治していた神農氏に対して、公孫軒轅(こうそんけんえん)が諸侯を討伐し、神農氏から帝位を禅譲されて「黄帝(こうてい)」を名乗りました。これが中国史上最初の帝王時代とされています。
この五帝時代の最末期にあたる舜帝は、夏王朝の始祖である禹(う)に帝位を譲ります。孔子は特に堯・舜を理想の帝王と称え、彼らは人間でありながら神に等しい存在として扱われてきました。
この流れ──神に近い五帝から、人間である禹王への帝位の移行──は、日本神話における「天孫降臨」の構造ともよく似ています。そのため、夏王朝の建国は、偽神ティインによる地上支配の一環であったと考えることができます。
夏の終焉と「霊的崩壊」
夏王朝最後の桀王は、その暴政によって殷の湯王に討伐されたと『史記』「殷本紀」などに記されています。
落合氏によれば、
「殷代の前期は、二里岡文化(紀元前16〜14世紀)に区分され、現在の河南省鄭州市二里岡に都が置かれた」
(同書 第1章「殷王朝の前期・中期」)
この時代背景は、OAHSPEにおける「ボンの夜明け」と一致しており、大天使リカの降臨によって、霊的な新時代が始まったと記されています。
つまり、夏の滅亡は桀王個人の失政によるものだけでなく、その王朝自体が偽神ティインの暴力的な思想を背景に持っていたため、霊的に破綻し、やがて終焉を迎えたとも解釈できます。
実際には、内政の混乱や外圧、周辺勢力の台頭といった現実的な要因もあったでしょう。しかしその根底には、OAHSPEが伝える「霊的な崩壊」が作用していたのかもしれません。

カン・クワンの征服戦争と夏王朝の誕生
中央集権国家の起源とティインの統治方針
『OAHSPE』第24書「対ジェホヴィ戦争の書」第32章には、偽神デユスに反旗を翻したティインの事績が記されています。ティインは、デユスが配下の神々に力を与えすぎたことが失敗の原因だと考えました。デユスは領地を持たず、部下に領地を与えて納税義務を課しましたが、課税が次第に過酷になり、ついには反乱を招いてしまったのです。
ティインはその反省から、部下に余計な力を与えないという方針を採り、領地を与えず、中央集権国家の形を築きました。これが後の中国の政治体制に影響を与えたと考えられます。
古代における中央集権国家は非常に珍しい体制でした。たとえば日本は、唐の制度を学んで中央集権を目指しましたが、天慶・承平の乱をきっかけに崩壊し、以後は地方分権が主流になります。ローマ帝国でも属州にある程度の自治を与えていましたが、中国だけは夏王朝から清朝に至るまで、中央集権を貫いています。これは、ティインの方針が根強く残った結果と考えられます。
歴史の創作と実在の王
ティインは理想的な統治者を描いた物語を創作しており、黄帝、堯、舜といった偉人もその一環とされます。ただし、夏王朝を建てた禹王については、実在の人物である可能性が高いと見られています。
カン・クワンと霊視能力の起源
『OAHSPE』第33章によると、カン・クワンはクワン・ホーの息子で、両親は「扁平頭」であったと記されています。これは古代の儀式の一環で、頭を板で挟んで霊的な光を見やすくするものでした。アフラによる実験が元で、この形状の頭を持つ者は霊界と接触できたとされています。
ただし、カン・クワンは愚か者とされており、これは知能が低いというよりも、命令に忠実であったことを意味しているようです。
世界征服を宣言したカン・クワン
ティインの庇護を受けたカン・クワンは、中国の小国オウ・ツェの王でしたが、突如として全世界に向けて征服宣言を出しました。
「予は太陽の息子にしてティインの子。天にはティインただ一人、地には予ただ一人。平伏するか、死ぬかを選べ!」
このような布告を出した当初は誰にも信じられず、嘲笑されるばかりでしたが、カン・クワンは神々の導きのままに戦争を始めます。
最初に攻め込んだツェヨットの城は、兵力で大きく劣るにもかかわらず、相手の過信によって野戦で勝利をおさめ、陥落させることに成功しました。初代総督にはディン・ジョウが任命されました。
王国の始まりと主従関係の起源
この時、創造主ジェホヴィはこう語りました。
独立した王国は隣接することはなく,互いに従属することもありませんが,王国全体が一つにまとまっており,より小さな王国はその一部となるものの上下関係はなく,互助関係を築きます。
(OAHSPE第24書「対ジェホヴィ戦争の書」33章21)
邪悪な者にこのような関係は築けませんが、将来、その邪悪さによってこういった関係が築かれるでしょう。
つまり、ティインが築いた中央集権体制は、善意ではなく支配による主従関係の原型であり、この構造が後の中国の国家体制に影響したと考えられます。
カン・クワンはこの後も征服を続けていき、王朝を築きました。この人物こそ、夏王朝の初代王・禹であったのではないかと推測されます。

参考文献, 使用画像
図書 | 著者 | 出版社 |
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OAHSPE ”A New Bible in the Worlds of Jehofih and His angel embassadors.” | John B. Newbrough | OAHSPE PUBLISHING ASSOCIATION |
史記1 本紀 | 司馬遷著 小竹丈夫、小竹武夫訳 | 筑摩書房 |
画像:stable diffusion(model:epicRealism)より生成
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