“善行”は誰のため? ──利害を超えて魂を磨く道
「善いことは誰のためにするのか?」
そう思ったことはありませんか。
人間は、何を目的に生きているのでしょうか。
善いことは、自分のためではなく、他人のために行うもの。
けれども、私たちはふと考えます。
「それを行うことで、自分には何の得があるのだろう」と。
もちろん、善行は利害損得で測るものではないと、頭では理解しています。
それでも、報われない善意に心が揺らぐことがあるのも、人間らしい感情です。
善行は、魂を磨くための学び──学ぶことと愛することは、どちらも魂の成長の糧。
『OAHSPE』の教えでは、肉体は滅びても霊魂は生き続けると説かれています。
この霊魂は、学びと善行を通して少しずつ磨かれ、その先にはより高尚な愛があり、それを感じてさらに成長していくのだと思います。
例えば、何かを学べばそれは霊魂に「知識」として刻まれます。何か他人のために善いことをしたら、それは「愛」という形になって心を豊かにします。それが積み重なっていくと、究極の愛が生まれるのだと思います。
つまり「善いことを行う」という行為は、他者のためであると同時に、自分の霊魂を成長させる行いだと考えます。
誰かを助けることで、実は自分の魂が癒やされ、明るく照らされていく。
善行とは、そうした“魂の教育”なのだと思います。
小さな善意を積み重ねるということ──それが誰かの模範となるとき、世界は少し明るくなる。
私自身、まだその境地には至っていません。
だからこそ、小さなことを少しずつでも行うことが大切だと思います。
そして、その姿を誰かが見て、同じように行動してくれたなら——
それがまさに、インドの聖人カピーリャが説いた「人々の手本となる善行」の実践だと思うのです。


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