【この名言が生まれた背景】
この世界を創造した創造主は、創造物を通して何を表現しようとされたのでしょうか。
その答えが、今回引用した内容にあります。
たとえば「力と暴食の権化」として創られたのがライオン(現在は絶滅していますが、マストドンも同様の象徴でした)。
「柔和や従順」の象徴としては、子羊や鳩(平和の象徴でもある)が創造されました。
そして人間は、「言葉と行動」の象徴として創造されたと記されています。

創造主の視点では、「善」や「悪」といった分類ではなく、「成熟」か「未熟」かという二つの状態に分けられるといいます(OAHSPE-20『神の言葉の書』9章-17より)。
つまり、善人であれ悪人であれ、どちらも創造主から産み出された存在であり、どちらも「その子供」であることに変わりはありません。
たとえば、ある人が真剣に考え抜いた末に行動を起こし、それが失敗に終わったとします。
しかしその「失敗」には価値がないのでしょうか?――決してそんなことはありません。
その失敗を他者と共有することで、他の誰かが同じ過ちを繰り返さずに済むという学びを提供できます。
また、どうしようもない「悪人」とされる人がいたとします。
創造主の視点から見ると、そのような人は「成長を止めた者」とみなされます。
それでも、悪人の存在にも意味があります。
世界はもともと「善」によって進もうとしていましたが、それだけでは足りず、「悪」も織り交ぜて進化が促されたといいます。
(OAHSPE-20『神の言葉の書』9章-17より)
とはいえ、「悪」はあくまで一時的な触媒に過ぎません。
その役割を超えて増殖し過ぎると、「裁き(審判)」という名の調整が入ることになります。
「善(=成熟)」は目指すべき目標であり、「悪(=未熟)」は反面教師。
どちらも学びの素材であり、人間はその「言葉」と「行動」を通じて、精神すなわち霊魂の成長を遂げていく存在なのだと思います。
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