偶像から創造主へ──信仰が本来の形を失うとき
地球には、外宇宙から偉大なる神々が降臨し、人類の救済を行ってきたと伝えられています。しかし、人間が自惚れて神の存在を認識しなくなったため、まずは信仰心を取り戻す手段として、目に見える「偶像」を崇拝の対象として教えることが始まりました。
ところがこの偶像崇拝が進むにつれて、人間は「信仰心」に目覚めるどころか、創造主の存在を忘れ、形あるものを神と見なすようになってしまいました。中には、かつて実在した人物を神格化し、神として崇めるようになった例もあります。
『OAHSPE』の教えでは、人間が崇めるべき存在はあくまで創造主ただ一つです。しかし創造主以外の存在──たとえば天使、神々、偉人など──を神格化して崇拝するようになると、教義は分散し、創造主の純粋な教えは忘れられていきます。
たとえば歴史上の偉人には、確かに人類に貢献した素晴らしい人物がいます。日本でいえば、徳川家康がその一例でしょう。戦乱の世を治め、江戸幕府を開いた功績から「東照大権現」として神格化され、神社まで建てられました。
もちろん、徳川家康の政治的手腕や思想は称賛されるべきですが、彼の教えが創造主と同じく人類普遍の真理であるかというと、それは異なります。
創造主のような普遍的な教えを持たない人物を神と崇めてしまうと、人々はその教えに盲目的に傾倒し、結果として間違った教義に導かれ、地球上に混乱や戦争が引き起こされてしまいます。
そこで、『OAHSPE』に記されているアブラハムの姿が対照的な例として挙げられます。旧約聖書の創世記には、アブラハムが奇跡を起こした記述が見られますが、アブラハム自身が神として崇められることはありませんでした。
なぜなら、アブラハムは一貫して「神の下僕」として行動し、自分の力ではなく、「神の言葉を伝える者」として人々に接していたからです。
その理由について、聖典はこう述べています。
「地球の国々は、彼ら(預言者)が神そのものではなく、神である私(創造主)が語ったことを伝道する者に過ぎないことを理解していた。」
この言葉は、どれだけ偉業を成し遂げたとしても、神と人間の間には決して越えてはならない一線があることを示しています。
偉人を尊敬することは素晴らしいことですが、彼らを神と見なして崇拝してはならない──この区別を明確に保つことこそ、混乱のない信仰を守るために大切なのだと思います。
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