【名言】自由とは、責任という重荷を背負う覚悟である

自由とは何か──神族会議の解散と人類の「解放」

紀元前3,000年頃、インド(ヴィンデュ地方)で活動していた伝道者ブラフマと、神族長ハチュエ(Ha’chue)との会話から引用された一節をご紹介します。

この時代は、女神クペンタ・アミジが地上に降臨することが予定されており、人類を霊的に導くため、4人の定命の人間が伝道者として選ばれました。それぞれの伝道者には、神が守護者として寄り添っており、ブラフマには神族長ハチュエが付き添いました。

ハチュエは、地球に仕える神々を取りまとめる立場にあり、神々による会議──いわゆる「Diva(神族会議)」の議長も務めていました。この神族会議は、神フラガパッティが昇天する際に設立され、次のダンの周期に降臨した女神クペンタ・アミジによって解散させられます。

この「神族会議の解散」は、人類にとっての“救済”を意味します。ここで言う救済(deliver)とは、神々に依存せず、人間自身が思考し、選択し、行動できる「自由」──つまり「束縛からの解放」を指しています。

しかし、この「解放された自由」は非常に厄介な側面を持っています。自由とは責任と表裏一体であり、自由に選択・行動できるということは、その結果のすべてを自分で引き受けなければならないということでもあります。

たとえば、偽神アフラの事例がそれにあたります。アフラはかつて創造主を騙り、多くの人々を自らの都合で支配し、彼らを霊的困窮へと陥れました。やがてアフラは討伐され、地獄へ堕とされましたが、後に救済されます。

その救済の条件は、アフラがかつて苦しめたすべての者の面倒を見ることでした。彼らが立派に成長するまで、アフラはその責任を取り続けなければならなかったのです。

これが、神がアフラに与えた「罰」でした。

他者の人生まで背負う──それが「責任」です。自由とは本来、そういった重大な責任を伴うものなのです。そのため、自由を手にする機会が与えられても、多くの人がその責任の重さを恐れて、それを拒むという“自由のジレンマ”が生まれます。

引用部分にある「束縛された者は、自分たちが束縛されていることに気づかないし、気づいたとしても自由を望まない」とは、まさにこの状態を表しています。

女神クペンタ・アミジの「人類救済」とは、人類が神々に依存するのではなく、自らの責任で考え、行動し、自由を生きることを意味していました。神族会議の解散も、その一環だったのです。

自由とは何か。
それは、責任を伴った選択を受け入れる覚悟があって初めて手にするものではないでしょうか。
そしてその覚悟こそが、真に人間を自由にする鍵なのかもしれません。

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