【名言】善行は日々のパン。飢えた心は無力となる。

正義の上にある優しさ──神アションの言葉から学ぶ「善行の力」

神アションが地球救済の任務に就いた際、地上に蔓延するドルジ(闇の霊魂)やドルク人(邪悪な生者)たちに向けて語った言葉からの引用です。

日本には「可愛い子には旅をさせよ」ということわざがありますが、これは「子どものうちにあえて苦労させることで、大人になったときに正義の感覚を身につけさせるべきだ」という考え方に通じています。

人間は、善行を日々積み重ねていくことで精神的に成長していきます。逆に、悪行をいくら重ねても、精神的に成長することはありません。

神アションは、善行の積み重ねは「日々の食事パン」のようなものだと語っています。そして「食事がなければ人間は無力であるように、善行がなければ人もまた無力である」と言います。

たとえば、普段まったく善行を行わず、自分の欲望のままに生き、他人から盗んだり、騙したり、害をなしたりしていた人が、突然困難に直面して誰かの助けを求めたとします。そのとき、果たしてどれだけの人が手を差し伸べてくれるでしょうか。

それまで他人に迷惑ばかりかけていた人が、都合の良いときだけ助けを求めても、応じてくれる人はほとんどいないでしょう。そうなるのは、日々の善行の積み重ね、つまり「善行の貯金」がなかったからです。

神アションの言葉「食料を与えなければ、賢明な神でも人間は無力である」とは、「日頃から善行を積んでいなければ、人とのつながりを失ってしまい、いざというときに無力になる」という意味にも解釈できます。

善行を積み重ねていれば、それが「善行の貯金」となり、自分が困ったときの助けにもなります。

ただし、「悪事への加担」は善行ではありません。たとえば、困っている友人を助けようとしたとしても、その友人が悪事に手を染めており、自分を共犯にしようとしていた場合、それに同情して手を貸してしまえば、結果的に悪に加担することになります。

このようなとき、行動が「正義」に基づいているかどうかが善行の判断基準となります。もし正義に反していれば、それはどんなに「優しさ」に見えても善行とは言えません。

つまり、「優しさ」は常に「正義」の上に立たなければならないのです。そのためにも、幼い頃からある程度の困難を経験させ、「情に流されることなく正義を見極める力」を育むことが大切なのだと思います。

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