「願い」とは誰のために唱えるものか──ザラツゥストラとアシャ王の対話より
神イフアマズダの命に従い、オアスの王アシャは聖書の写本を完成させ、それを全世界の属国に配布し終えました。その後、彼は王位を退くべきかどうかについて、ザラツゥストラに助言を求めました。
ところがザラツゥストラが謁見する前に、神イフアマズダはアシャの心の中に現れ、アシャの内面で様々な対話が交わされました。
やがてザラツゥストラがやってきて、アシャと語り合いますが、その中でアシャは、自分の心に語りかけていたのが本当に神イフアマズダだったのかどうか、疑念を抱きます。
引用したのは、まさにその時の会話からの一節です。
この中で、「神に願掛けをする際、自分の欲望のために願うと、それに応じるのは“テトラクト”である」と語られています。
“テトラクト”とは、人を悪の道へと誘う要因であり、主に「七つのテトラクト」があるとされます(詳細は用語集を参照してください)。
つまり、自分の私欲のために祈っても、それを叶えるのは結局、自分自身しかいないということです。
しかし反対に、他人の幸福を願い、「自分が今どうすればその人の助けになれるか」と真摯に悩み、問いかけるならば、神はその声に応えてくれる──このように『OAHSPE』は教えています。
願掛けをする時には、その願いが誰のためのものかを意識することが、霊的な成長においても重要な意味を持つのかもしれません。
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